昭和43年2月3日 夜の御理解   (末永信太郎)   №0-19




 白いご飯を頂いたり、青い野菜を頂いたりして、それが赤い血や肉になる。不思議なことである。ね。赤い血になったり、赤い肉になったり。頂いておるご飯は白いの、頂いておる御野菜は青いの。信心をして、御教えを頂く。その頂く御教えが、ね、思いもかけない不思議なおかげになったり、お徳になったり、ね、同じことである。どんなに白いご飯に、青い御野菜に血に肉にする働きがあっても、こちらの健康状態がよくない、頂き具合が悪いと、それが血にも肉にもならない。ただ、頂いておるけれども、痩せ細っていく。
 どんなに素晴らしいお徳の頂けるお話でも、どんなに素晴らしいおかげになるお話でも、それを、ただ頂いただけ、不健全な心。ね。または、それを頂いておるようであって、頂いていない。ね。頂くということは、お話を聞くということだけではない。お話を、ね、御教えを頂くということは、ね、御教えを頂かせてもろうて、心で分からせてもろうたことを、それを日常の生活の上に現して行くことである。それが、教えを頂くということになる。
 ここには、絶対、それは白いご飯が赤い血になるように、教えを頂けば、絶対おかげになる。絶対、もう絶対である、お徳になる。ね。信心をすれば、誰もお徳が受けられる、誰でもおかげが受けられると仰るのですから。ね。2~3日前であった。佐田紀子さんの御母さんが毎日参って来る。おばあちゃん、お父さん、朝の御祈念に修行されて、お母さんがその後から参って来る。2~3日、昨日一昨日だっただろうか、御参りをして、本当に一日おかげを頂いて、子供達が非常におかげを頂いて。
 特に、先日学校の先生に、大変その面目を施したと言うのである。おかげを頂いた。紀子さん自身も先日参って来た時にお届けをしてお願いをしよった。もう、紀子さんが小学校の何年生かね、四年生。まあ、四年生で、その、クラスでは一番、いろんな意味でも出来るわけなんです。
 ですから、まあ、その、いつも、その指導の立場にあるわけです。ところが、その、やはり子供は子供なりに様々な人間関係があるわけです。人間関係ちゅうものは難しいね。長ずれば長ずるで、やはり人間関係が難しい。小学校の、まあ、四年生ぐらいでもそうである。自分が指導的な立場にあるから、いろいろ、例えば御掃除なら御掃除のことでも、監督をするだけの立場にあるらしいけれども、皆が言うことを聞かん人が何人もある。そこに非常にその、子供ながらも悩むわけ。
 言うことを聞かんところが、反対にその、まあ、言うなら邪魔をする。皆が一生懸命になって、例えば、御掃除なら御掃除をしておるのに、この人達が御掃除が出けんようなことを平気でやる、その御友達が何人かある。そういう人達のことを、こう、願うのである。
 人間関係の難しさを、どうぞ、おかげを頂くようにと言うて、御願いをするのである。ね。その時に頂いた御理解がです、紀子ちゃん、豊かな大きな心になることだ。そういう言うことを聞かん人があってもいい。それに、いちいち心境を病まずに、ね、豊かな心になることである。そんな御理解を確かに頂いたと思う。先日、隣のクラスの先生が紀子さんの担任の先生に、こう言われた。
 先生、あなたんところのクラスに、もう一人飛び抜けて、その、素晴らしい良い子がおりますねち言うて。そうですか、誰でしょうか。いいえ、こういうような顔をして、なかなかリッチ的な、それでいて実行力のある、もう、私はいつもあの子を見ておると、もう、感心することがとってもあるんでしょうち。はあ、あの子でしょうて。ね。私も、もう、その方はずいぶんお年をとった女の先生らしい。もう、何十年間教えて来たけれども、こんな子供を受け持ったことは初めてだ、と。
 たしかに、あの子でしょう。なら、とにかく一遍(くぎりっけん?)して下さいと言うてから、生徒がいっぱいおる時に、そのまあ先生が連れて来てから、どの子ですか。はあ、そうです、私が目を付けとるのもあの子ですよと言うて、その言われたち言った。それが紀子ちゃんじゃった。
 もう、先日もあの寒いとに、もう、みんな掃除しよらんとに、だいたい、紀子ちゃんはあなた、もう監督さんで、その見て回るだけでよか。それにもう、腕まくり上げてから、もう一生懸命、人の洗濯の御掃除ば一生懸命、一人でしよる。もう、私は見惚れてしもうとったち言うてから、その、仕事ぶりにね、まだ小学校の四年生。ね。いよいよ、教えを頂いておるのである。ね。
 これなら、もう絶対、信心の血に肉にならないはずがない、おかげにならないはずがない。ね。いかに、いくら、毎日参っておっても、ね、教えを頂いておるようであっても、頂いてない人がどのくらいあるか分からん。ね。教えを頂くということは、聞くということじゃない。ね。不思議なことじゃないの。
 白いご飯を食べて、赤い血になる。ね。そういう働きをして下さるのが、神様なん。ね。なら、そういう働きをして下さるような神様だから、誰しも同じかと言うと、そうじゃない。こちらの不健康な状態。ね。であれば、どんなにご飯を頂いても、血にも肉にもならん、ただ、痩せ細って行くだけという人もあるでしょう。ね。そこんところをこの頃、佐田先生は、ね、金光教の天地の親神様という神様は全知全能の神ではないと言われたですね。キリスト教辺りでは言う、全知全能の神という。
 ほとんどの宗教がそういう風に言うけれども、ね、お道の信心で言う天地金乃神というのは全知全能の神ではない。どこまでも、氏子が、ね、氏子(同士?)の立場で神を用いて行く神様だ。神様を現して行く神様なんだ。ね。そこにどうしても、神様と氏子があいよかけよということにならなければ、おかげにならんのだ。だから、神様だけでもどうにも出けない、人間だけでもどうにも出けないのである。けれども、私どもの、その気になって神様に打ち向かえば、そこからです、神様とてもどうにも出来なさらない働き、私ども人間だけでもどうにも出けない働きがそこから生まれて来るんだ、と。
 それを私は、鐘が鳴るのか、(しもく)が鳴るか、鐘と(しもく)の(あい)が鳴るという風にいつも表現いたします。鐘だけが鳴るのじゃない、(しもく)だけが鳴るのじゃない。その鐘と(しもく)とがこう、合った時に、(やも言われぬ)音色が出て来るように、私どもがね、本当に教えに取り組む、教えを頂く。そこに、神様を現すことが出来る。ね。そこに、創造もつかない、人間の力では及びもつかない、そこに不思議な働きというものが生まれて来るのである。ね。
 だから、先ず自分の心の上にです、教えを頂くということは、ね、教えを聞くということではなくて、聞いてそれを行ずることなんだ。ね。紀子ちゃんは、どうしてあんなに、いつも言うならば、素晴らしい子であろうかというような事がです、いつの日にか、ははあ、金光様の信心を一家中でしよんなさる。紀子ちゃんも少年少女会で信心のけいこを子供ながらもしておる、教えを頂いておる。
 ああいう教えが学校ででまで、ああいう風に現されておるんだなということが、もし、友達やら先生方に分かって来る時に、いよいよ神様を現すことになるわけ。ね。それは、宣伝しなくてもいいのだ。なるほど、ということになって来るのである。ね。
 金光様の信心て素晴らしいなあ。ああいう子供でも、ああいう風に変わらせる。金光様の神様っちゃ、有り難い神様であろうと、いわゆる、神様の名が出て来る、神様を現すことが出来る。ね。そこに、また、氏子を現して下さる働きが生まれて来るのである。言うならば、教えが、いわゆるおかげにもなれば、お徳にもなって来るのである。白いご飯やら青い野菜が赤い血や肉になるのと同じこと。
 んなら、白いご飯やら青い野菜を誰しもが赤い血に肉にすることが出来るかと言うと、不健康の人、受け入れ状態の健康の上にない人がいくら頂いても、痩せ細って行くだけだということ。ね。ですから、ね、お道の信心は記念祈祷で助かるのじゃない、話を聞いて助かると仰るのはそうなんです。
 話を聞いて助かるということは、話を頂いて助かるのだ。話を聞けば、心が開ける。ね。そこに、おかげに頂けれる元があるのである。ね。お話を聞くということだけではいけない。聞いたことが行の上に現されなければ、仕事の上に現されなければ。ね、そこにお道の信心のいわゆるおかげがある。ね。
 話を聞いておかげになる。話を聞いてお徳になる。聞いただけで素通りした分では、それは、不健康な人がご飯を頂いて、それが、ただ素通りしておるだけ。血にも肉にもならんのと同じことなんだ。考えて見ると、実に不思議な不思議なことである。そういう働きを下さるのが神様なのだけれど、んなら、神様が、ね、全知全能でないとこの頃言われたのは、それなん。
 なら、誰でも頂きゃ、誰でもおかげを頂くかと言うとそうじゃない。受け心の悪い人が頂いたって、どんなに素晴らしいお徳になる話でも、この人はお徳になり、(おつ?)の人はおかげになり、(平)の人は全然、何もならない。おかげにも徳にもならない。ね。
 いかに、その、何というですかね、受け心というか。ね。有り難く頂かなければならないか、ということになって来るですね。どうぞ、教えが血に肉に、ね、おかげにお徳になって行くような教えの頂き方をしなければいけないと思うね。どうぞ。